ニセ科学批判が、常識を逸脱した非行に陥っている原因について

 ニセ科学批判が、常識から逸脱した叩き行為を生み出して、科学知識や科学的な物事の考え方の普及、ひいては科学の進歩を著しく妨げる、問題性を帯びたものになって暴走していることは、すでに、はてなブックマークのコメント欄の悪用問題に言及した結果、明らかになったと思います。残念ながら、はてなブックマークの信頼性と価値を、著しく押し下げていることが、はっきり見えてきました。その原因は、『ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。』を読めば、ある程度明らかになるでしょう。ニセ科学批判のスタイルが、ひとつの権威のもとに形成されて、素人考えの解釈で暴走した結果、科学知識を扱う常識から逸脱したものになっていたり、科学的でない発想を繰り広げる異様なものへと変質しているケースが目立つようです。科学の進歩を著しく妨げる問題行動は、糺される必要があると感じます。以下に、どのような錯誤が流行しているか観察し、科学知識とはなにか、科学的なものの考え方とはどのようなものか、正しい仮説の取り扱い方などについても見ていきましょう。


 科学知識の紹介方法は一通りではありません。『検証可能性がなければ、科学ではない』『査読付き論文が示されてないからニセ科学』だと、私に対して罵ってきた勇ましいニセ科学批判信者達がいましたが、彼らは重大なことを見落としていました。専門家向けに、討論することを前提に書かれた解説ならば、検証可能性や査読付き論文は重要な意味を持ちますが、一般の人向けに書かれた製品カタログや、高校までの教科書には、そのようなものは載せないのが慣習であり常識です。私の日記も、一般の人向けに書かれているため、そのようなものが添付されていないことが、読んでも分からず、常識的な判断が働かなくなっている時点で、すでに問題が生じていると見ていいでしょう。

 もしも、ハイテク家電製品のカタログに、査読付き論文のリストが載っていないから、ニセ科学とか、トンデモだと、レッテルを貼って騒ぎ立てたらどうなるでしょう。メーカーに対して、カタログに査読付き論文のリストを載せろと、慣習や常識に反する不当な要求を、執拗に繰り返し強要して、ネット上の通販のサイトなどで暴れ回ったら、場合によっては威力業務妨害と判断されかねません。刑事・民事裁判の被告席に立たされて、社会的に罰を与えられる可能性もで出来ます。カタログに査読付き論文のリストが載っていないのは、科学的な議論を目的とした情報の提供をしているわけではないからです。同じ理由から高校までの教科書にも、査読付き論文のリストを付ける慣習はありません。「付いていないものは、ニセ科学やトンデモ情報と判断される世の中に広く認められたルールがある」と主張して、絶対に教科書には論文のリストを載せておかなくてはならないと、文部科学省に向かって、査読付き論文のリストが付いていない教科書の使用禁止を提言することに、妥当性があるでしょうか。ニセ科学批判信者達を教育する立場にあると思われる震源地の某教授が、そのような非常識な言動を働いたとは聞いていません。

 私が書いている日記が、一般の人を対象としたもので、義務教育を終えた高校生のレベルの人を対象に、少し予備知識をプラスアルファすれば読みこなせるように、易しい言葉や表現を選択していることが、読んでも分からない人々は、その時点で読解力に問題があると判断するしかありません。慣習や常識に反するニセ科学批判に走る人が大勢現れて、はてなブックマークのコメント欄の悪用が起こったようですが、『はてなブックマークのコメント欄の乱用問題。』で指摘したように、小学生レベルの心得違いした問題性が認められると、私に一蹴されて終わる結果になりました。

 素人のニセ科学批判信者達は、査読付き論文のリストを付けるとはどういうことか、正しく認識出来ていないレベルにあるため、再教育が必要だと思います。解説書に査読付き論文のリストを付ける場合には、読み手に対して、論文を読むことを要請していることになります。とうぜん、読んで理解していることを前提に解説が進みます。論文を読むとは、文字通りただ文章を読むだけではいけません。そこに書かれている実験を実際に読み手が行って、内容の真偽を確認して、現象を完全に理解することが求められます。学術的な議論を行うには、どうしても必要なプロセスです。フィトンチッドを用いた防疫技術のことを私と議論したかったのか、研究資料を示すように求めてきた、ニセ科学批判信者達がいました。本気で議論したいのであれば、ヴィップスヴェポラップといった、市販品の誕生までの経緯を、関連する論文を一通り読んで頭に入れる必要があります。さらに、データの検証に必要な実験施設は私のほうで提供しますから、少なくとも10人ぐらいは集めていただいて、施設の利用代金1人当たり1時間2万から5万円として、100時間ぶんぐらいの費用を各自で負担して、相応の時間を割いて、現象の事実関係を学習して頂かなければならないことになります。もちろん議論の進展によっては、さらに結論を出すまでに、さまざまな実験が必要になるかもしれません。これは、専門家でない一般の人々にとって、現実的なことでしょうか? このような手段を用いない限り、研究者本人の頭の中で、未科学から科学へと移行する過程にある、不確実な事実関係を確認して、真偽を見極めることは出来ません。まともに確認もせずに、「事実なのか単なる思い込みなのか判別しよう」と、私に対して「インフルエンザのウイルスを包むたんぱく質の殻にフィトンチッドが付着すると、人体の免疫機構を潜り抜けようとしても・・・」といった、浮ついた中途半端なレベルの背伸びした議論を挑んでも、意味がありません。その現象を実際に確認しておらず、必要な理解度に達していない不勉強な状態にあることを理由に、私は話を受け付けません。さらに、限られた要素のみで構成された研究室内で起こった出来事が、複雑な要因が加わってくる現実の日常生活の中でも、同じように成り立つかどうかは、また別の問題になります。話が研究室内の実験だけで終わるほど、簡単なものではないのです。実験のデータだけを見てそのまま信じてきたらいたら、机上の空論に振り回される可能性もあるのです。専門家の科学者によって行われる、科学的な視点から物事の真偽を見極める本物の学術的な議論の世界は、以上のような大掛かりなものになります。この場に書かれた私の日記を読む人々全員に、これを要求するのは無理難題に等しいことです。そんな非常識なことを不当に要求して、人を執拗に罵ってくる、素人のニセ科学批判信者達の心得違いを、どのように糺して再教育すればいいのでしょうか。


 科学知識の紹介方法は一通りではありません。学術的な議論を目的とした専門家向けのサイトでは常識的なことも、一般の人向けに科学知識を提供するサイトでは、行わないのが常識だということが理解できない、ニセ科学批判という有害な一種の現代の振興宗教と化したものを妄信する状態に陥って、暴れ回るグリーファーの一団がいるように見えます。ハイテク製品のカタログや高校までの教科書に査読付き論文のリストを載せないのが慣習で常識であるように、私の日記もまた、一般の人が読むことを前提に書いているので、読者に対して、多額の研究費の出費や研究時間の消費を強いるような、常識から外れた書き方をするつもりはありません。ニセ科学批判信者達を教育する立場にある、震源地にいる某教授が、査読付き論文のリストが載せてあるサイトに書かれているものを読むとはどういうことか、専門家向けに書かれているわけではない、一般人向けのサイトをどう読むべきか、再教育しない限り、科学知識を提供している多くの人々が、妄信状態に陥って非常識な言動を繰り広げている、心得違いした素人のニセ科学批判信者達の襲撃を受けて、いい迷惑を被る事件は、今後も繰り返し続いていくだろうと思います。

 科学知識の真偽の判定は、専門分野の科学者にしか分からないことなのだから、任せておけばいい。これが一般常識です。それを、素人がやるべきことだと錯覚を与えて、常識を見失わせる思想を吹き込んだ時点で、衆愚化によるトラブルの発生は必然でしょう。科学知識の真偽を素人が判断しなくてはならないという、常識外れの錯誤した状況を故意に作って、ニセ科学批判という怪しげな思想にかぶれさせて、モンスター素人科学評論家が量産されて、素人考えの間違った認識や判断、大量の誤情報がネット上を流通する、見苦しい衆愚化した状況を招いた罪は重いと思います。

 ニセ科学批判批判はこのぐらいにして、この問題を解決するには、科学知識とはなにか、科学的なものの考え方とはどのようなものか、正しい仮説の取り扱い方などについて、きちんと常識が身に付くように教育していく必要があると感じます。そこで、科学知識とは何か、その本質を明らかにしておきましょう。


 科学知識は仮説と検証の産物です。ノーベル賞を受賞するほど評価を受けた科学知識でも、科学の進歩によって、あっという間に覆されて、間違った知識として扱われるてしまうことがあります。たとえば、ヨーグルトが健康に良いと言ってノーベル賞を受賞した人がいましたが、あっという間にこの主張を覆す発見が登場しました。ヨーグルトの菌は胃酸などで簡単に死んでしまうため、生きたまま腸に届かないことが明らかになったのです。乳酸菌を食べても無意味だと指摘されて、ノーベル賞を受賞した研究は、トンデモ情報とみなされかねない事態に陥ったのです。ところがその後、乳酸菌は死んだ状態で腸に届いても、善玉菌の餌となって腸内細菌叢を良い状態に保つのに寄与していると判明すると、今度はトンデモ情報と指摘した人々の側の、理解不足・研究不足が批判される結果になりました。科学知識の発達は、このようなイタチゴッコの連続です。現時点で仮に正しいとされていても、一寸先はどうなるか分からないのです。科学の進歩によっていつ覆されるか分からない不確実な情報の集合にすぎません。たとえ査読付き論文などあっても、その正しさを信じずに、まず疑ってかかる探究心を持っているのが本物の科学者です。したがって、査読付き論文が提示されているものは、ニセ科学と糾弾しなくてもよいが、そうでないものはニセ科学と判断して叩くべきだと考えること自体が、科学とは何か、本質を知らないまったくの素人のナンセンスな発想です。

 本物の科学者達は、物理学界を中心に「科学は近似的解決にすぎない」という考え方を持ってきました。科学者は、現時点で発見されて知られている、限られた物事を対象にしか考えることができません。また、検証も、限られた範囲でしか行えません。したがって、検証を経た仮説や理論であっても、知られている限られた範囲でしか正しいこと(有効性)が分かっていない、不確実な情報にすぎないのです。たとえ小学生の子供であっても、科学的視点から物事を考えて、仮説を立てることが出来ます。優れた考察力を備えた人物に育てようと思ったら、小学生のときから、そういった思考の訓練をさせるべきです。しかし、子供の限られた経験と知識の範囲内で作られた仮説は、大人の目から見たら、限定されたレベルの低いものにすぎず、本当は間違っているように見えても当たり前でしょう。それでも、子供の目線で見えている世界で、うまく物事が説明できているうちは、近似的解決が行えているとして、大人はその考え方を無理に修正しようしないのが正解です。さまざまな経験を積んで知識を身に付けて、物事の理解が進めば、自然に間違いに気付く日が来るのですから。もちろん、間違いを見つける推理のヒントを与える手助けはしますが、あくまでも、間違いに気付いて正しい考えを身に着けていくのは本人の仕事です。一足飛びに大人と同じ目線に立って物事を考えるのは無理なので、段階を踏まえた成長を見守っていくのが正解です。もちろん、一般の大人が正しいと考えている物理法則だって、物理学者からみれば、ただの幼稚な勘違いの可能性があります。でも、科学的な発想で、物事を近似的に解決出来ているならば、それでかまわないと考えるのが妥当なのです。この問題で、よく例に出されるのが、ニュートン古典物理学と、相対性理論の関係でしょう。ニュートンの時代の古い物理学の世界観は、相対性理論の出現によって覆されてしまい、正しくないことが明らかになりました。ところが、今でも日常的な物理現象を、簡単にうまく説明できることを理由に、古典物理学は学校で教育され、実際に科学技術を開発する現場でも使われています。ニュートンがオカルト好きだったことや、鍋で卵の代わりに時計を茹でてしまったエピソードを理由に、ニセ科学扱いしたり、トンデモという人はまずいません。つまり、科学の本質は、正しさが全てでも、検証結果が全てでもないのです。ニセ科学批判の思想は、上記のような本物の科学者ならば当たり前のように承知している常識的な事柄を見失った、問題性がある非常識な認識に立脚したものに変質しています。心得違いした問題行動を取るニセ科学批判信者を量産してしまった某教授は、科学知識を取り扱ううえでもっとも大切な基本的な考え方を、賛同者に対して適切に教育することが出来ない、致命的な問題性を抱えているように見えます。誰かが心得違いを糺さない限り、科学の進歩を妨げる有害な動きは止まらないでしょう。