この文章は、某小学校の先生方と議論するにあたって配布したレジュメです。短いですが、同様の目的で使用するにはこのくらいがちょうどいいでしょう。ご自由にお使いください
1. 明白にニセ科学であること
写真の「結晶」は本物です。しかし、結晶の形が言葉に影響されるという主張は嘘なのです。音楽にも影響されません。江本氏らは「科学的にはまだ証明されていない」というますが、そうではなく、科学的には完全に否定されています。結晶の形は温度と過飽和度で決まることは、中谷宇吉郎が人工雪の実験で示しました。これは世界的に知られたすぐれた業績です。また、水は感覚器官も頭脳も神経も持たないただの物質なので、言葉の「意味」に反応することはありえません。
ニセ科学を事実であるかのように教えることは、理科教育と完全に相反します。理科離れが叫ばれる今、ニセ科学を学校の場に持ち込むことには慎重であってほしいと希望します。ちなみに、「水からの伝言」は所詮は江本グループが展開する「波動ビジネス」の一部です。
2.道徳に取り入れることの問題点(1以外に思いつく疑問)
- 仮に結晶が言葉に影響されるとして、それが道徳とどのように関係するのでしょう
- 結晶形の良し悪し(美醜)を言葉の良し悪しと関連づけることは、「人を見かけで判断してはならない」という道徳と矛盾するように思います。
- 良し悪しの判断を結晶形に委ねてしまうことは、思考停止ではないでしょうか。良し悪しは自分の頭で考える(考えさせる)べきものだと思います。極端な話、好きなときに結晶が作れるようになれば、人間は善悪の判断を一切自分でしなくてもよくなってしまいそうです。それはまずいでしょう。
- そもそも道徳を科学(この場合はニセ科学だが、仮に事実としても)で裏付けようとすることには問題がありそうです。道徳は人間の心の問題であって、科学が介入すべきものではないと思います。
- 人間の身体の大部分が水でできていることは事実ですが、人間が言葉に反応するのはそのせいではなく、感じる心をもっているからです。人間の気持ちを水のせいにしてしまうのは、人間の尊厳を傷つけるように思えます。
- 「ありがとう」はよくて、「ばかやろう」は悪いという安直な二分法でよいのでしょうか。誠意のこもらない「ありがとう」よりも愛情をこめた「ばかやろう」のほうがいい場合もあるはず。言葉はそれだけで切り出すべきではなく、「場面」と合わせて初めて意味を持つはずです。
- 高学年ともなれば、結晶の形が言葉に影響されないことを知っている子供もいそうです。
- その場で納得した子供が、あとで「事実ではない」と知ったとき、裏切られたと感じるのではないでしょうか
- 親が「それは嘘だ」と言ったら、子供は教師と親の板挟みにあいそうです
授業にフィクションを取り入れてはいけないと言っているわけではありません。さまざまな授業で物語が大きな役割を果たすことは重々理解しています。「水からの伝言」は「事実」として教えられるところが問題です。
参考までに、授業に取り入れられてしまいそうなその他のニセ科学
すでに授業に取り入れられているものも含みます
- ゲーム脳の恐怖
- 脳内革命
- 100匹目の猿
- EM菌 (効果がないわけではないのが難しいところ)
- 奇跡の詩人
ニセ科学かどうかを判定するのが難しいことはよく理解しています。今はインターネットでさまざまな情報が手にはいりますが、怪しい情報も多く真偽の判定は難しいでしょう。一番いいのは専門家に聞くことですが、なかなか難しいかもしれません。道徳に限るなら、私自身は「道徳を科学で裏付けようとしない」ことが一番だと思います。
ご質問にはいつでもお答えします。