未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

インターネット時代の学び方

インターネット時代に生きている我々にとって必要なスキルってなんだろう。現代版、読み書きそろばんってなんだろう。

TVのCMを見ているとエクセルとかワードとかを上手に使えないと生きていけないみたなことをやっていて、PCのスキルが読み書きそろばんだってな危機感を煽っている。まあ、あながちPCは使えないより使えた方がいいかもしれないが、そのような道具レベルの話ではなく、もうちと学び方の学び方みたいなメタなことを考えてみた。

子供のころ、漢字の書き取りや計算問題を必死になってやらされたのは、文字の読み書きや計算というのは、日常的に必須のスキルでそれを持っていないと、いろいろ生活に差し支えるからだった。日本人は幸いのことに、識字率も高いし九九のおかげで暗算も得意だ。学校教育の賜物と言っていい。

だけど、漢字を書くことは、コンピュータが自動的にかな漢字変換をしてくれるし、計算は電卓がやってくれる。なので、相対的に漢字の書き取りのスキルや計算能力の重要性は下がってきている。薔薇という漢字は書けないけど、わたしのかわりにコンピュータが変換してくれる。習字で、文字を美しく書くことを練習したが、手書きの手紙を書く機会はほとんどないので、悪筆でもどうにか生きていける。お葬式とかで記帳するときに恥ずかしい思いをすることには代わりはないのだが、日常生活でそうあることでもないので、どうにかなっている。

教育というのは、結局のところ生きるために必要なリテラシーを半分強制的にでも伝えることである。その時はそのスキルの重要性に十分理解できていないとしても、大人になって、あーそーだよな、あれは役に立ったというようなことを伝え、出来るようにさせることである。スキルというのは、そのことを知っているというだけではなく、それを出来る能力である。それを出来るまで訓練する必要がある。

その生きていくために必要なスキルというのが時代の変化によって徐々に変わっていけば、それに対応した教育と言うのも求められていく。

http://dotsub.com/view/58707cf2-f861-46dd-95c3-62020b4ec8c8

サー・ケン・ロビンソン ―パラダイムが変わる
地球上の全ての国が 公教育を改革しつつあります
その理由は2つあります
一つは経済的な理由です
21世紀の経済を乗り切らせるために
どう子どもたちを教育すればよいのか
答えを見いだそうとしています
どうすればいいのでしょう?
最近の混乱で明らかになったように
来週末の経済状況も見通せない状況で
どうすればいいのでしょう?
また第2には文化的な側面もあります
どの国も 子どもに固有の文化を受け継ぐための
教育を見いだそうとしています
社会の文化的遺伝子を伝えるのです
一方でグローバル化は逃れられず、いかに両立させるか
これまでの方法は、未来に合わないことが問題です
その間にも学校に目的を見いだせない子どもが何百万人も疎外されます
学校では こう言われます
一生懸命勉強してよい成績を取って
大学を出れば仕事が得られる
子どもたちはそんな話は信じません
子どもたちのほうが正しいのです
学位はあってもいいですが、何も保証しません
自分にとって大切なことを犠牲に進学だけを重視するのは
間違ったことです
現状打破のために基準を高めるべきだと言う人もいます
まぁそうでしょう 基準を下げることはない
基準を下げるべきだと説く人に会ったことはありません
基準はもちろん高い方がいいでしょう
今の教育システムの設計構想と組織とが
時代に合わなくなっていることが問題です
啓蒙運動の時代の知的な文化と
産業革命の経済状況の中で構想されたのです
19世紀中頃まで公教育のシステムはありませんでした
ただ お金持ちならイエスズ会で教育を受けることができました
しかし税金で賄われる公教育はなかったので
全員に義務づける無料の教育は革命的なアイデアでした
多くの人が不可能だと反対しました
労働者の子どもたちに教育を与えてもメリットはなく
読み書きも身につかない 時間の無駄だというのです
そんな社会階層ごとの能力についての思い込みもありました
当時の経済的な要請が公教育を推進しましたが
知性についてのモデルが背骨となっています
それは啓蒙運動に端を発する知性の捉え方で
真の知性は演繹的推論の能力と
古典の原典についての知識という
アカデミックな能力と呼ばれるものを指していました
公教育の DNA として深く刻まれた考え方です
アカデミックな人とそうでない人という区別です
賢い人とそうでない人
こうして 多くの明晰な人たちが自分は賢くないと考えます
能力についてこの見方で判定されたためです
二本柱のようにそびえるのが経済と知性です
そして私に言わせれば このモデルが多くの人々の人生に
混乱を招いています
幸運にも
このモデルで多いに得した人もいます
しかし損した人も多い
これで苦しんだ人も多い
見当違いに作り出された近代の伝染病を紹介します
ADHD という名の疫病です
アメリカにおける ADHD 件数のグラフです
ADHD の処方件数というべきかもしれません
ADHD が存在しないとは言いません 誤解しないで下さい
その有無を論ずる資格もありません
大多数の精神科医と小児科医の考えだと知っています
しかし未だに議論の焦点でもあります
私に言えることは 伝染病ではないということ
扁桃腺の切除と同様に 子どもたちに日常の投薬をするのも
風変わりな医療のやり方です
子どもたちは歴史上最も刺激的な時代に生きて
PCやiPhoneや 何百ものテレビチャンネルなどの
情報にさらされ 気が散らされます
なのに気が散ったからと罰しようというのです
退屈な何かから気を散らすのです たいがいは退屈な学校で
正気の沙汰といえるのでしょうか
ADHD 件数の上昇は 標準テストの普及と一緒に進み
子どもたちはリタリンやアデラールなどを投与されるのです
危険を伴う薬の作用で集中させ落ち着かせられます
ADHDアメリカを東に移動するに連れて増加します
オクラホマ辺りでは興味をなくし
(笑)
アーカンサスまで行くとまともに考えられなくなり
ワシントンに着いた頃には、気が変になっています
(笑)
何か違う理由があるのではないかと私はにらんでいます
作られた伝染病のようではありませんか
芸術について考えてみれば ―これは芸術に限らず
科学や数学にも通じる話ですが
とりわけ芸術が、今のこの風潮の犠牲になっていいます
とりわけ
芸術は、美的な体験を通して学ぶものです
美的な経験とは感覚が最高に機能して得られるもので
今のこの時を体験し
経験していることの興奮と共鳴するように
いきいきと生きているときに得られます
麻痺状態とは感情を塞いだ状態で
何か起きても興味も湧きません
そして多くの ADHD 薬はこの手のものです
子どもを教育するために麻酔するなんて
やるべきではありません 眠らせるのではなく
内なる何かを目覚めさせるのです
しかし今のモデルはこうです
今の教育のモデルは工業化のためにこれを模して作られたものです
いくつかの例を示します
学校は今も工場のラインのように分けられ
始業のベルと別々の科目
別々のテーマに対して専門化され
子どもたちは今も集団で教育されます
年齢集団で教育システムを進んで行きます なぜそうするのでしょう
年齢で子どもたちを分けるのが大事だという根拠は何でしょう
まるで製造日が重要だと言わんばかりです
同い年の子どもでも優劣の差は大いに存在します
あるいは一日のうちでも時間によって
大きなグループよりも小さなグループや時には一人になりたいかもしれません
学習のモデルに興味があっても、製造ラインの発想から始めてはいけません
それは基本的に適合性であり そしてますます
標準テストと標準教程の普及につれて
標準化の問題になりました
進むべき方向は正反対だと信じています
パラダイムが変わるとは このことを言いたかったのです
多様な思考法についての数年前の調査によれば
多様な思考法は創造性とは同じものではありませんが
ちなみに価値のある独自の考えを生み出すプロセスを創造性と呼びます
多様な思考法は同義ではありませんが 創造性には欠くことのできない能力です
質問に沢山の回答を見つける能力です
質問を多くの可能な方法で解釈する能力です
エドワード・デ・ボノがいうところの水平思考です
延長線上や収束するように考えるのではなく
単一の答えの代わりに複数の答えを探す
このためのテストを考案しました 例えばこんな質問をします
ペーパークリップの使い道を幾つ思いつきますか
お決まりの質問のあとで訪ねます
多くの人は10から15件ほど思いつきます
これが得意な人なら 200 件まで行くかもしれません
例えば、ペーパークリップが 200フィートの高さだったり、柔らかいゴムで出来ていたり
つまり それは私たちが知っているペーパークリップと別のものでいいのです
これがテストです 書籍「ブレイクポイントとその先」の中で1500人にテストしてもらいました
テストの手順に従って、あるレベル以上を達成すると
多様な発想の天才とみなされます
では問題です 1500人の中で
多様な発想の天才のスコアを獲った人はどれぐらいいたでしょうか
もうひとつ伝えておかなければならないことがあります
幼稚園児にテストしたのです どう思いますか?
天才は何パーセントぐらいいたでしょうか 80パーセント
80 結構です 98パーセントでした
さてこの研究は長期にわたるものでした
5年後に同じ子どもたちに再テストを行いました
8から10歳のとき どんな結果を予想しますか? 50パーセントです
そしてさらに5年後13歳から15歳のときにも再テストをして
こんなトレンドを得ました
興味深い結果です
逆の展開を想像しませんでしたか? いかがです
それほど良くないところからスタートして歳と共に向上すると思いませんでしたか
この結果は2つのことを示します 一つはだれもが持っている能力だということ
二つ目は 大部分が劣化してしまうということ
子どもたちの成長に連れて多くのことが起きました 多くのことです
考えられる最重要の出来事は 子どもたちが教育を受けたことです
10年を学校で過ごし、正解が一つと学びます 巻末にあるけど見てはだめだよと
丸写しはだめ それはインチキです
学校を出ればそれをコラボレーションと呼ぶのですが 学校は違います
教師たちがこうしたかったからではなく そういうものだからです
教育はもともとそういうものだったのです
人の能力について違う考え方を持たなければなりません
アカデミックとそれ以外という古い考え方を捨てなければなりません
抽象的で理論的で職業的なものの追求しても 役に立ちません
第二に最も素晴らしい学びはグループの中で得られます
共同作業は成長の糧です
人々をバラバラにして 個別に評価したら
生徒たちを自然な学習の環境から切り離すことになります
第三に 我々の組織の文化の問題です
組織の習慣とそこに巣食う住人たちの習慣です