非国民通信

ノーモア・コイズミ

遺伝子はいつから神になったのか

2011-01-30 23:46:44 | ニュース

田辺誠一、世間の常識に流されない グレーな部分あっていい(産経新聞)

 作品のテーマは、代理出産。簡単に是非を決められない問題と感じる。「産みたい人がいて、技術があるなら、選択肢のひとつ。でも、金銭が絡む恐れがあれば、規制せざるを得ないでしょうしね」

 自分の遺伝子を残すこだわりや重圧は理解できるが自身にはないという。「僕は自分のDNAって、そんなに大したものではないと思っているので」と笑う。育てたい気持ちや環境、愛情に重きを置く。「だから、養子も選択肢のひとつだと思う。家族の形がもう少し自由であってもいいと思っているんですよ」

 この十数年来の経済政策が継続されれば、いつか代理出産というビジネスで生活を立てざるを得ない人が日本にも少なからず出てくるような気がしてならない昨今です。その代理出産をテーマにした映画に出演した田辺誠一氏のインタビューが掲載されているわけですが、引用した部分の後段は「今時珍しい」意見かも知れませんね。体外受精や代理出産が急増する一方、養子縁組というのは極めてレアなケースともなりました。見出しにあるような「世間の常識」からすれば、体外受精や代理出産を選ぶ人の方が圧倒的に多いわけで、今や養子縁組など最初から検討の対象にすらならないもののようですから。

 ちょっと昔には高田延彦と向井亜紀夫妻の代理出産が耳目を集めたことがありました。向井亜紀は「高田延彦のDNAを残したい」などと口にしていましたし、似たような発言は他でも散見されるように思います。いったいいつからDNAは、そこまで神聖なものになってしまったのでしょうか。個人の趣味としては許される範囲ではありますが、あまりにも「DNA」が絶対視されるようであれば、そこに気持ち悪さを感じないでもありません。どうしてもDNAの繋がりがなければならないのか、そこは疑問視されても良さそうなものです。

 全く品種改良されていない野生の植物にも毒性や発がん性のあるものは無尽蔵にありますし、伝統的な農耕手段によって生態系が破壊されたケースもまた枚挙に暇がありません。その一方で、何かにつれ非難に晒されがちなのは遺伝子組み換えやクローン技術といったDNAに触れる手法です。もちろん何らかのリスクを含むものが批判的検証の対象とされるのは当然のことなのですが、DNAに触れる類の新技術に関しては、そのリスクとは別の動機で不当な非難を受けていることも多いように思います。

 つまり、伝統的な手法であろうとDNAに関わる手法であろうと、危険なものはその危険性に応じて慎重に取り扱おうとするのではなく、DNAに触れるか否かによって線引きされる傾向があるわけです。あたかも個人の資質によってではなく国籍の違いによって扱いが隔てられるように、その安全性の度合いではなく、まずDNAに触れるかどうかによって扱いが代わる、DNAに触れるものであれば、それだけで全否定されてしまう傾向は少なからずあるはずです。

 必然的に遺伝子組み換えもしくはクローン技術であることを理由とした否定は、科学的根拠を欠いたものとなりがちです。概ねそれは信仰心の如きものから発していて、「とにかく遺伝子組み換え/クローン技術はいけないんだ」みたいな信念が最初にあるように思われます。そして発せられるのが「道徳的には」あるいは「倫理的には」という問いですが、しかるにDNAを神聖不可侵なものとして扱う道徳や倫理なんてのは随分と歴史の浅いもので、それこそ「作られた伝統」の類ではないでしょうか。遺伝子を扱う技術に関しては宗教界からの論難も多々ありますけれど、その教典に「DNA」なんて言葉が書かれた宗教なんて、それこそごく一部の新興宗教だけのはずです。にも関わらずDNAに触れる技術を神の教えに反するものであるかのように考えるのは、すなわち遺伝子を神と同一視しているようなものと言えます。

 少子化が進む一方で、産んだ子供を育てるのに著しい困難を抱えている親の存在もクローズアップされることの多い時代です。昔とはひと味違った形で、新たに養子縁組制度が発展すれば問題のいくつかは緩和されそうな気もしますが、「世間の常識」が望むのはDNAの継承なのかも知れません。科学技術の発展に負の側面があるとするなら、その筆頭にはDNAが繋がっていてこそ親子という感覚の蔓延を上げたいところです。もうちょっと、DNAに対する強迫観念から解き放たれても良いのではないか、引用した田辺氏が言うように「家族の形がもう少し自由であってもいい」のではないかと思います。その辺を掲載メディアがどう思っているかは知りませんが。

 

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9 コメント

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Unknown (金魚草)
2011-01-31 19:00:08
>いったいいつからDNAは、そこまで神聖なものになってしまったのでしょうか
 元々日本では養子制度は子供の福祉ではなく家制度の為にあったので(民法を読めば一目瞭然)、かつての絶対的聖域であった「家」が崩れた今新たな絶対的なものの象徴としてDNAが成り代わっただけではないでしょうか。
>昔とはひと味違った形で、新たに養子縁組制度が発展すれば
 最近数多く報道されている養子縁組制度を利用した犯罪を見るともういっその事成人を養子にするのを全面禁止にしてしまえとすら思います。成年後見制度がありますし。
Unknown (非国民通信管理人)
2011-01-31 23:31:19
>金魚草さん

 ではなぜ、その聖域に置き換えられるものとしてDNAが選択されたのか、その辺は考えてみるべきではないでしょうか。また養子制度の悪用云々に関しては、生活保護の不正受給と似たようなもので特異なケースばかりがクローズアップされることで、ネガティヴなイメージが煽られているところもあるように思われます。
Unknown (新橋)
2011-02-01 00:12:29
昔から「血」と呼ばれていたものがDNAになっただけでは?
何故といわれても… (貝枝五郎@あいかわらず期間工)
2011-02-01 07:29:21
> ではなぜ、その聖域に置き換えられるものとしてDNAが選択されたのか、その辺は考えてみるべきではないでしょうか。

何故といわれても、男系血統主義の天皇制と親和性があるから、ということではないでしょうか?ですので、遺伝子偏重という疑似科学も天皇制による女性差別や血統主義の結果生じた社会現象ととらえることをとおしてはじめて十分に認識できるものと思われます。ですので、遺伝子だの血縁だのという論点に関しては、すくなくとも日本におけるそうした論点に関しては、天皇制への批判を主軸とすることが肝心かとおもいます。
ところで、有斐閣アルマの『ナショナリズム・入門』も日本に関する章をふくめ一部よみましたが、なぜ日本では国家主義という幕末以降の産物において天皇制がつきまとってきたんでしょうか?もし天皇制が国家主義に不可欠の要素なら天皇制のない世界諸国には国家主義が存在しないことになるのに実際は存在しますし、国家主義が天皇制なき諸外国において存在する以上、天皇制なんてなくても国家主義を鼓吹することは当然に可能なのに(つまり排外主義をあおってもうける右派諸勢力は天皇制を打倒しても食い扶持にこまらないのに)。
Unknown (kawa)
2011-02-01 19:32:49
私も10年とか不妊治療や代理出産に費やす例をみると血のつながりがなければ育てられないのか?と疑問に思っていました。
児童ぎゃく待など言われるように産むよりある意味育てる方がずっと難しい事です。
育てる能力とお金のある人は10年も医者にお金はらうより養子をもらってその子にお金かけてあげればいいのに、と感じます。40台とかで子供が出来ても成人まで親が病気や失業の不安もありますしそれ以前に母子共に障害が残る危険も大きくなります。合理性の問題だけではなく、せっかく家制度が無くなって女性は家を存続させる為に子を産む道具ではなくなったのに、自分の血に必要以上に拘ることは女性は子供を産むだけが価値だって事になってしまいます。
あと代理出産などの例を見ていてそこまで無理に作って重い病気や障害がある子だったらどうする気だろうということです。高齢の出産はその確率は格段に大きくなります。そこまでDNAに拘って、親の能力を継ぐことを前提にして、その子が能力を継ぐどころか一般的に言えば欠けた部分があったら、心理的にどうなんだろう、ちゃんと育てられるんだろうかと思うのです。
ですから心理的にも肉体的にも合理性があるとは思えないのです。もう少し血のつながりから解放されてどんな子でも可愛がって育てるというような社会になればいいなと思います。
Unknown (bobobo)
2011-02-01 23:05:31
(1)体外受精や代理出産がもてはやされる理由

私はこの理由を体外受精などの生殖技術が近年発展してきたからと考えます。
昔も今も人が自分のDNAを共有する子を欲することに違いは無く、単に昔は体外受精などを実施する選択肢がなかっただけです。
現代になって生殖技術が手の届くものになってきたことにより、DNAを残したい願望を刺激してきたこともあるでしょう。

(2) 遺伝子組み換え/クローン技術が非難される理由

これはいわゆる「フランケンシュタイン・コンプレックス」の現代版と考えます。
大衆には遺伝子や生殖細胞の技術が「怪しい存在を作り出す得体のしれない術」と見られているからです。これらの技術は実際に成果(品種改良、不妊治療など)をあげていることが魅力であり同時に危険視される理由にもなっています。
遺伝子が神とみなされている、というよりは、遺伝子をいじる術が神か悪魔の所業と見られている、というところでしょう。
Unknown (非国民通信管理人)
2011-02-02 00:14:30
>新橋さん

 少なくとも昔の日本は「血」の継承を重視する風習などありませんでしたよ。

>貝枝五郎@あいかわらず期間工さん

 その男系血統主義も、作られた伝統ですよね。血統主義的な、作られた伝統を崇める過程に組み込まれることでDNAが神聖視されるようになった、その気持ち悪さは意識されるべきでしょう。

>kawaさん

 いやはや全くです。体外受精や代理出産がダメとは言いませんけれど、もう少し「血」とか「遺伝子」とかの類へのこだわりを緩めてもいいと思うんですよね。仰るように血筋やDNAへのこだわりには弊害も大きい、もうちょっと(容姿など)他の選択肢が検討されたっていいのではないかという気がします。

>boboboさん

 それは強弁というものでしょう。逆を言うなら新技術であるが故に、逆に毛嫌いされるものもありますし。元より日本では「イエ」の継承を重視して実子がいるにも関わらず養子に家を継がせるなどの風習もありました。昔からDNAの継承へのこだわりがあったことにしてしまうのは、「今」の価値観を正当化すべく、それを過去に投影している部分が大きいように思われます。また、DNAに触れることを「神か悪魔の所業」扱いすることは、すなわちDNAを神聖視していることに他ならないのですが……
Unknown (シトラス)
2011-02-02 00:41:40
「日本の伝統」とされるものの歴史が意外と浅いのはよくあることです。
ただ、科学とオカルトは以外と相性がよいとも言われています。
つまり、今まで迷信の領域で育まれていた考え方が、科学により正当化されるということです。
たとえば、細菌やウィルスの発見が日本では「穢れ」の思想とリンクしたと言われています。
生命倫理に関しては、遺伝子の改造はゆっくりではありますが品種改良という形でこれまでも行われてきたし、クローンや「メスの細胞だけで生み出されたマウス」もこれまでに積み重ねられてきた科学の成果なのですから、一見とんでもない技術に見えてもある意味「お釈迦様の手のひら」の話なのかもしれません。
Unknown (非国民通信管理人)
2011-02-03 00:03:00
>シトラスさん

 たしかに、科学が悪用されてオカルトの正当化に使われるのはよくあることですね。オカルトというより詐欺のような類でも、科学っぽい説明付けを付け加えることで、さも本物であるかのように売り込みが図られることもしばしばですし。DNA云々もきっとその類なのでしょう。

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