日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


2011/4/1(金)

4 月1日は、十数年前に百八歳で世を去ったぼくの曾祖母の誕生日である。 ぼくの娘とちょうど百歳ちがいだったので、最晩年には八歳を筆頭に四人の玄孫(やしゃご)がいた(五世代が同時に生きていた)。

この日には、毎年、彼女にまつわるエピソードを書いてきた。 これまでに、2002, 2003, 2005, 2006, 2007, 2008 と六回書いていて、2009 は祖父が亡くなったので番外編。 だんだんネタがなくなってきたのだが、ともかく去年もちょっと書いた。 その際の結びは「もっとすごいエピソードを思い出すのを来年の 4 月 1 日までの宿題としておきます」だった。

しかし、どうも宿題は達成できないみたいだ。 これといったエピソードを思い出さないというだけでなく、考えが散り散りになってまとまらないというのが正しいか。 地震直後に、宮城県の大叔父夫妻の安否を知るべく、かつての曾祖母の家のあったところに住んでいる親戚と久々にメールでやりとをしていると曾祖母がいたころの彼女の家に親戚が集まっていた日々を思い出すが、それもあまりに遠い昔のように思えてしまう。 田崎家の拠点を東京に移すまで福島で長く暮らした曾祖母は、現在の福島の厳しい(という言葉ではとうてい表わせない)状況を知ったら怖ろしがるのだろうか?  それとも、それこそ、関東大震災も第二次世界大戦も大人として体験した彼女は、今回の災厄からも人々はきっと立ち直るはずだと力強く太鼓判をおしてくれるのだろうか?


数学:物理を学び楽しむために」の論理と命題の部分の改訂は少しずつ続いている。何人かの人のコメントを取り入れて、ちょっとずつ改良されていくのがうれしい。

昨日くらいからは、「計算可能性」の専門家の鴨浩靖さんからも背理法にからんで、かっこいいことを教えてもらえた。これはうれしい。 さらに、たとえば「ルート 2 が無理数であること」の証明に背理法(というか排中律)は本質的ではないと教わって、なるほど思って考えてみると、実は背理法なんか使わないほうが証明はきれいだなあと気づいて、書き直す。 ついでに、背理法の実際の応用ででてくる形も定理 2.2 として定式化してみた。 具体例だったら、完全に直観的に間違わずに証明できるのだが、こうやって抽象的に書いてみたのは初めてで、なんか愉しい。

実は、鴨さんはかつてインターネット上の理想的な議論のサロンとして賑わった黒木掲示板のお仲間なのだ。 もしあの頃であれば、本へのコメントも掲示板経由で公開でやってもらって、ぼくが(少しずつ)教育されながら本を改良していく様子も実況中継で見てもらえたのになあと思ったりする。


今日から新学期。

ぼくらの理論グループには、若手の助教の高橋さんをお迎えした。 これで物理学科の平均年齢が下がっただけでなく、平均身長が上がった。

そ し て、 ぼくはもう学科主任ではない。

夕方には、秘伝の「主任虎の巻」(2007/4/2)とともに、ぼくの主任業務に関するファイルをすべて荒川さんに渡して引き継ぎ終了。

二期・四年間はやっぱりちょっと長すぎた。 もう飽きたし、ともかく、うれしい(←こうやって書いていてもニヤニヤしてしまう)。


2011/4/3(日)

ずっと家にいて「イジング本。」の作業。

予想外にはかどった。 最後まで残っていた「もつれ」の一つを解消したつもり。なんか、パッと見晴らしが開いたみたいに展望がよくなって、ようやく本の終わりまで見通せた。

レビューアーに見てもらえる最初の草稿の完成まであとわずか。マジでうれしい。


やっぱり、気になること、不満なこと、不安なことはある。

以下、ひたすら月並みで、ぼくが言う必要もないことだろうけど、ちょっとだけ書いておく。


意志決定の仕組みについて知りたい。 いずれも激烈に重要かつ困難をきわめる問題であり、その解決のために最高の英知を結集していると信じたい。 その仕組みを知りたい。 どういうバックグラウンドの専門家たちがどういうチームを組んで、どういう風に意志決定しているのか。 別に、個人を特定して責任を負わせたいわけではない。 これほどに重要な局面でどうやって物事が決められていくのか、一人の大人として、素直に知りたいし、知るべきだと思う。

さらに、それら強力なチームの中にいる専門家、あるいはそういう人たちが忙しすぎればそのすぐ周辺にいて意志決定のプロセスを知っている専門家から、一般に向けて情報を出してほしい。 現状をどう認識し、どのような対応をとっており、その先をどう展望しているか、専門家として生き生きと多様な言葉で語ってほしい。 「誰にでもわかる簡略でポイントを突いた説明」「ある程度の専門知識のある人への本質の説明」「プロへの説得力のある説明」などを臨機応変に使い分けることができるのは真の専門家だけなのだから(それができる人を専門家と呼ぶと言ってもいい)。

原子力発電所の事故に関して言えば、早野さん牧野さん(解説はこっち)による分析と解説は素晴らしいと思う。 しかし、一般の人に向かってこういう解説をするのが彼らのようなボランティア(だけ)だというのは悲しい。 彼らは基本的には一般に公開されたデータだけを利用して情報を発信している。 中枢で意志決定しているチームははるかに多くの情報を持っていると推測されるが、彼らがそれをもとにした分析と展望を解説することはない。 このアンバランスは不快だ。

もちろん、主流のチームがもっている膨大なデータもインターネットで公開しなくてはいけない。 たとえば早野さんや牧野さんのような、意志決定のチームとは無関係だが専門的な知識のある人たちが、主流のチームと同じデータをもとに独自の解析を進め、意見を闘わせるのはきわめて重要だ。 主流チームからの情報発信と、周辺のボランティアからの情報を比較することで、一般の人は真に有益な知識を手に入れることができる。 (ここで、「東北地方太平洋沖地震に関して日本気象学会理事長から会員へのメッセージ (2011.03.21) 」に触れるべきなのだろうが、あまりのことに批判する気さえおきない。未だにこれが本物だと信じられない気持だ。これは単に気象学会の中枢にいる一部の××××な人々の××××な体質の現れに過ぎず、多くの気象学者はこのような精神とは無縁であると信じたい。)

これは、インターネットの時代には十分に実現可能な理知的なプロセスだと思う。


と、明文化したものを読み直してみると、思っていた以上に、凡庸で、しかも実現可能性が低く、具体性に欠け、力のない文章であることに悲しくなる。

というわけで、以下はお口直し。


中野さんの 1 日の日記がとてもよかった。

結びの文章

不謹慎だという意見は結局、「微妙な問題にはなるべく触れないで形式上謹み慎んでさえいればいい」という怠惰と思考停止の裏返しだ。放っておいても余生を逃げ切れる傍観者の老人達にはお似合いのご意見だが、愛するものも汚いものも傷ついたものも壊れた原発もこれから全て背負って長い距離を走らなければならない我々には必要のない言葉だ。
に本当に感動したので、何度も何度も読み返したあと(読み返すたびに、卒業式をはさむ日々の色々を思い出して、ちょっと涙が出そうになる)、これは Twitter 上に(非公式)RT(retweet) という形で書いてみたいと強く思った。 日記更新の発言しかしないという誓いを破るだけのことがあるだろうと思ったのだ。

しかし、貼り付けてみると、この部分だけで 159 文字あって Twitter に入らないという馬鹿仕様。 こういう名文の場合は例外を認めなさい。

仕方がないので、途中を省略し(つながりをよくするため)一カ所だけ(著者に無断で)改変して、投稿。やっぱりちょうど 140 字です。

ちなみに、前半で話題になっているのはこの記事だよね。 これにクレームをつけたくなる人の精神性にこそ(以下自粛)。


2011/4/4(月)

ぼくはいわゆる「原発事故ウォッチャー」ではない。 テレビは情報の密度が低いのでほぼ見ない(事故発生以来トータルでも 10 分も見てない)。 web 上の情報は、とくに初期には随分と読んだ気がするが、それでもシステマティックに情報を入手しているわけではなく、目立ったニュースと他の人がリンクする物を眺める程度だ。

というわけで、原子力発電所事故についてしっかりしたものが書けるわけはないのだが、自分用のリンクの整理も兼ねて、気になることのごく一部について少しだけ書いてみる(誤りの指摘や追加情報などをいただければありがたいです)。


事故からほんの二日ほどたった頃に、早川さんが Twitter で紹介してくれた The New York Times の 3 月 13 日の記事を読んだ。 別に「外国のメディアは信頼できる」と主張するつもりはないが、この記事は、事故をおこした 1 号機と同じ GE 社製のよく似た原子炉に深く通じている複数の人たちにきちんと取材した上で書いているので、信頼に値すると思われた。 見出しを見ればわかるが、ここには「現状の能率の悪い冷やし方をするかぎりは、炉内の圧力を下げるために定期的に外に気体を逃がす必要があり、それによって放射性物質が外に出続ける」ということ、そして「このプロセスは数ヶ月、あるいは年のオーダーつづく」ことが明記してある。 また、原子炉の配線のことを考えると、通常の冷却系を動かすのはきわめて困難だろうと述べているし、原子炉だけでなくプールの中の使用済み核燃料の危険性についても指摘している。

ぼくの見た範囲で日本のメディアから「数ヶ月」という情報は出ていなかったし、Twitter などでは「短期決戦」的な雰囲気さえ感じられたので、「数ヶ月」は重く響いた(言うまでもなく、発電所周辺の人たちにとっての重さは計り知れない)。 ともかくそれを受け入れた上で、状況を考えなくてはと自分に言い聞かせることにした。

「放射性物質止まる時期『数カ月後が目標』細野補佐官」という 4 月 3 日の記事は、(もちろん、13 日以降、さらなる予期せぬ事態が続き状況は悪化したと思うが)基本的に上の The New York Times の論点が正しかったことを(ようやく(←そうでないなら、ご指摘ください))政府が認めたというものだと思う。 ともかく、このまま大きな突発事故がなくても(多分、防げるのだと期待している)これから最低でも「数ヶ月」の長期戦になるということが公式の了解になったということか。 それにしても(あまりに月並みな感想なのは分かっているが) The New York Times の認識が示されてから、それが公式見解になるまでこれほどに時間が必要なものなのか。


上の新聞記事にもあるが、使用済み核燃料プールのこともきわめて気になる。

かなり前から「4 号機の使用済み核燃料プールは既に崩壊している」という意見があったが、満水であることを確認したというニュースもあって、何が何だかわからない。

一方、爆発が本当にひどかった 3 号機だが、AIR PHOTO SERVICE が 24 日に撮影した写真というのを見ると、ほんとうにすごいことになっている。 たとえば 9 枚目あたりをみると徹底的なこわれっぷりがわかるし、4 枚目あたりで右側の(やっぱり壊れているけど骨組みの残っている)4 号機と比較してみると建物の上半分が消えてなくなっていることもわかる。 使用済み核燃料プールは建物の上のほうにある(あった)というから、これでプールが健在とはなかなか考えづらい。 牧野さんがここで

3号機は上半分がなくなっているだけでなく、下半分についてもかなり崩れていることがわかります。おそらく、使用済燃料がはいっていたとされるプールなるものはすでに完全に壊れていて、そこに貯蔵されていた大量の燃料棒は楽観的には建屋の床、まあその普通に考えると建屋周辺にガレキにまざって大量にとびちっている、というふうに考えるべきと思います。
と書いているが、これはきわめてもっともらしく感じる。

3 号機のプールには、使用済み燃料が 514 本、新品の燃料が 52 本あるとのことだ。 それらが建物の一階あたりにばらまかれているとしたら、プールの冷却システムを復活させて燃料を安全に保管するという「きれいな解決」はあり得ないということだろう。 だとすると、コンクリートで封印するしかないのか?

いったい公式見解はどうなっているのだろう?  たとえば、服部良一事務所のまとめを見ると、3 号機の使用済み核燃料プールについては「露出?」とだけ書いてある。 さらに、温度が 56 度と書いてある。これは放射温度計で遠くから測った温度なのだろうが、あの壊れぶりをみると、何の温度を測っているのか大いに疑問である(なお、経済産業省の報道発表(今の段階では 72 報 (pdf) が最新)では、3 号機のプールの温度は「計器不良」となっている)。 また、東京電力のプレスリリースには、3 号機のプールの状況について特段の記述はない。 意志決定をしているみなさんは、本当はどういう認識をもっているのか、是非とも明解な説明を聞きたい。 (それともプールの位置などについて、われわれに誤解があるのだろうか?)


それにしても、情報の出てき方は釈然としない。

上で触れた AIR PHOTO SERVICE の航空写真だが、この記事などには、 20 日と 24 日に約 150 枚が撮影されたとある。 しかし、上の(国外の)web page で紹介されているのはそのうちの 11 枚。 これしか公開されないというのは面白くないし、真剣に状況を解析しようとしている人たちにとっては露骨に困ることだろう。 今どき、写真を web で公開するのは容易なことなのだから、あるものはどんどん公開すればよいではないか。 関連して思い出すのが、米軍の無人偵察機グローバルホークが撮影した写真が日本政府に提供されているが公開しないというニュースだ。 映像が「特段優れているわけではない」ことが公開しない理由というのは実に不可解。 陰謀論っぽい議論は嫌いだが、それでも、何かを隠しているのではないかと疑いたくなるのが人情というものだ。 こういうことを続けて不信感を増幅するのは、陰謀論や過剰な不安を熟成することにしかならないと理解してほしい。


2011/4/5(火)

とある若い人と都知事選について話していて、「○○って『○○は○○』とか発言しちゃったんだから、さすがに誰も投票しないでしょ」という意見を聞いた。

ああ、なんとナイーブで世間知らずな若者よ(ぼくも十分にナイーブで世間知らずだが、それ以上だぞ)。 世の中はそういうものじゃないみたいなのだ。 ぼくもなぜだかは知らないけど。 ぼくらにとっては想像力と品性を欠き見てはならないある本質を露呈したとしか考えられない「失言」であっても、「言い方は悪かったかもしれないが、その熱い思いに共感する」などと感じる人がたくさんいるらしいのだよ。 あるいは、そもそも、そういう話は気にせず、その候補にはリーダーシップとか「人としての魅力」があると思う人もいっぱいるらしい。 候補のこれまでの失言がネットで集められていたりするけど、そういうのはきっと無力。 多くの支持者はネットなんかみないし、見たとしても一部の人が意地悪な揚げ足取りをしているとしか考えないのだろう。

要するに「誰も投票しないでしょ」などと思っては決していけないのです。 もしあなたが東京都民で、当選してほしくないと思う候補がいるなら、確実に投票所に行って、その人以外の候補に有効票を投じるのが唯一かつ最良の手段だと思います。もちろん、ぼくはそうします。


あ、ぼくの 3 日の日記について牧野さんに叱られていたことに今さっき気づいた。
おっしゃるとおり。 返す言葉もない。ほんと「駄目」です。

そもそも、「最高の英知を結集していると信じたい」という表現が、何の判断も示していないずるい物の言い方だった。 あとから、「いや、ぼくは『信じたい』と言っただけで、あれは皮肉のつもりだった」と言ってもいいし、「いや、ぼくは信じていたし、そう希望していたのです」と言ってもいい。 要するに、響きはいいけれど、無責任で無内容な言明になっている。 でも、それもそのはずで、ぼく自身は意志決定体制について積極的に調べたわけでもないし何かを積極的に判断して表明するつもりもなかった。 要するに書くべきことも持たないのに書いてしまったために必然的にふにゃふにゃの文章になった。 書き終えたとき自分でもパッとしないと感じて「思っていた以上に、凡庸で、しかも実現可能性が低く、具体性に欠け、力のない文章」などと書いているが、本当にそう思うならばっさり消せばいい。アホか。 今から消したい気分だが、書いて公表してしまった物は仕方ない。恥をさらしつつ、そのまま残しておく(冗談のネタとかなら、あとから躊躇せずに書き直すのであるが)。 牧野さん、ありがとうございました。フォローは無用です。


2011/4/7(木)

いよいよ学期始めということで(少し問い合わせもあったし)今学期の講義のまとめ。

どの講義も来週(4 月 11 日からの週)が第一回である。ひえ〜、準備が。

あと、ぜんぶ 2 時限目(10 時 40 分から)。

月曜日 「現代物理学」(駒場 723 教室)

恒例の毎年かならず新ネタをやるという(やる方にとって)恐怖の講義。 今年は、なんと「物理学における『時間』」という大胆不敵なテーマ。困ったな。

去年、瀬藤さんと知り合って、不老不死だの、「細胞レベルでは若返りは可能(可逆)だけど個体レベルでは若返れない(不可逆)」みたいな話で盛り上がった勢いで、こんなタイトルをつけてしまった。 いわゆる「無茶しやがって」状態ですな。 もちろん、例年、あまりプランは作らずに講義に飛び込んでいるのだが、今年はどうなるのかガチでわかりません。 あくまでの未定の講義内容は公式ページに書いてあります。

水曜日 「量子力学 2」(南 3-104 教室)

「量子力学 1」の続きですな。 去年に続いて二回目。ただし、去年は川畑さんの「量子力学 1」と続ける必要があってそこに気を使ったけど、今回はぼくのやった「量子力学 1」と自然につながる(はず)。 近未来の名著「田崎・量子力学」の完成にむけた大きな一歩となるであろう。

ちょうど量子力学の入門が終わったところなので、量子力学の原理を整理して一般的な定式化をしっかりとまとめるところから入る。 数学的に厳密な結果についてどこまでまとめて話せるかが難しい。まだ悩んでいる。 途中くらいからは、もちろん、角運動量とか水素原子とかの計算もバリバリでてきまっせ。

金曜日 「数学 2」(南 3-103 教室)

一年生向けの数学の講義。 ご存知「数学:物理を学び楽しむために」が生まれるきっかけとなった伝説の講義である。

最初は微分方程式の基礎をがっちりやるところから。 高校で微分方程式を教えなくなって久しいし、こういうところに、抽象的な数学を使って現実の問題(たとえば物理)をやる意義と威力の本質が顔を出すと思うので。 最初にやる減衰の微分方程式の応用例は、やっぱり放射性同位元素の半減期だよな・・・  その後は、座標、ベクトル、線型代数と、すごい加速感を味わってもらって、大学に入ったということをみなに実感してもらうのじゃ。


駒場の講義では「時間について哲学的な話はしない」と宣言しているのだけど、まあ、一応そういうのも参考までに見ておこうと思って、
大森荘蔵「時間と存在」(青土社、1994 年)
というのを、パラパラと。

うむむむ。

なんというか、失礼なことは書きたくないし、もちろん哲学については私は何も分からない(という立場を公には取る)わけだし、ぼくが読んだ部分など大森さんの主要な仕事とは無関係なんだろうけど、しかし、この論考に知的価値を見出すのは困難な気がします。

まあ、これについてここで延々と書いても興味のある人は少ない気がするし、ぼくもいろいろやることもあるわけだし、やめておこう。


2011/4/8(金)

入学式に式典はなく、例年は入学式に引き続いておこなっている、理学部の教員紹介、ホームルームでの写真撮影、それからホームルームに分かれたミーティングだけを行なう。 ぼく自身、式典は意味がないと思っているので、ある意味、ちょうどいい。 実際、昨夜も大きな余震があったことを思うと、大会場に人を集めないという方針は正しかったと思う。

例年より少し遅れてしまったが、数学の教科書の印刷版を配布。 こんな時だからこそ、思いっきり派手に、ピンクの明るい表紙をつけた。

新入生たちは素直で明るく元気。 ぼくのルームには、スポーツ好きで、数学好きのメンバーがたくさん集まった。 前者はさっぱりだが、後者はぼく好み。 配った数学の本もうれしそうに眺めてくれていると、こっちもうれしくなる。

新入生のみなさん、お互いがんばりましょう。


2011/4/11(月)

今学期の講義が始まる。 スタートは駒場から。

いろいろと言いたいことがいっぱいあって、全てをしっかりとしゃべると時間がなくなるしどうしようかと迷ったりしているうちに、話が散漫になってしまった。 やっぱり、原発事故を共通の背景として意識しつつ「科学とは何か」を語ろうとしたのがバランスを崩した原因か。 未熟者め。

すみません。 言い訳をしていないで、来週からは密度の濃い話をします。

とはいえ、一つだけ自分でも気に入っている完璧なアドリブのネタ。

壇上を歩き回り「運動の不可能性」について弁じるエレア派のゼノン。

会場から野次が飛ぶ。「おまえ、動いとるやないか」

ゼノンは演壇に手をついて立ち止まり、少しじっとしたところで、

「え、動いてないっすよ」


午後は清水さんのところでずっと議論。

清水さんたちがやっている新しい話を聞いた。また、孤立した量子系での平衡への接近について、杉田さんや清水さんが考えていた描像がぼくの目指そうとしていることとしっかりと整合していることを確認。 心強い。とはいっても、問題の常軌を逸した難しさに変わりはないのだけど。

最後に佐々さんのところによって立ち話をしているときに、大きな余震。 ちょうど一ヶ月後に来るとは。 駒場での震度は 3 だったらしいが、7 階にいると揺れはそれなりに大きい。 いつものことだが、震源付近での被害がまず気にかかる。

激しい夕立が去ったあとの霧雨の中をいつものように澁谷まで歩く。 街が暗い。


2011/4/12(火)

こちらの「原子力工学研究者からのメッセージ」というページにある 4 月 11 日付の文書のことを知った。 2 ページ目には東大の工学系研究科の教授 9 名の名前が連ねてあるので、彼らが執筆したものなのだろう(しかし、これは 2 ページ目の「メッセージ」の発信者なのかもしれない。3 ページ目以降の執筆者が誰なのかは明記されていない)。

3 ページ目以降は、「福島第一原子力発電所における 事故の経緯と今後の可能性について」というタイトルで、

本稿は、4月6日までに報道された情報と、原子力工学に関 連する科学技術的知見に基づき、事故の状況を解釈して、 どのように備えるかを含め、とりまとめを試みたものです。 事故は未だ終息しておらず、情報も限られていることから、 今後訂正、追加すべき点も含まれうることをご了承ください。
とある。 専門の科学者による分析が読めると素直に期待した。

しかし、実際に読んでみると、かなり(というか、相当)期待はずれだった。 不満点は多いが、たとえば 6 ページ目から、いくつか具体的に挙げると、

といったところか。 あるいは、「そもそもこの文書はどういう読者を想定して書いているのか」といった根本的な疑問もある。 ともかく、「今後訂正、追加すべき点も含まれうる」と書いてあるから、どんどん改善されることを強く期待する。

本当はもっとちゃんとしたコメントにして、著者(ら)に要望(と応援)を送るべきだと思うのだが、連絡先やメールアドレスが書かれていないのでどうしたものかちょっと迷う。 そもそも、東大のサイトではなくグーグルに置いてあるというのも、いささか釈然としないところではある。

あと、どうでもいいかもしれないけれど、このページ(付記:すでにないようです)の最初の

メイン  http://sites.google.com/site/nuclear20110311/
がアクセスできなくなっていますので併設しました.すいません.
は、ちょっと勘弁してほしい。 つい先日も、就職活動中の T 君から届いた(真面目な)メールに、
「すいません」は、「すみません」が訛った口語なので書き言葉で使うべきではありません。 しかし、そもそも、公式の文章やメールでは「すみません」ではなく「申し訳ありません」と書くべきです。 そういうところをきちんとしないと大人社会で一人前と見てもらえませんよ。
と注意したばかりなので(それと、「がアクセスできなく・・」ではなくて「にアクセスできなく・・」だなあ)
2011/4/28(木)

「ゴールデンウィーク明けまでには」というキーワード付きの宿題が次々と増えていく。 いくら仕事が早いとはいえ、ちょっとまずいかも。 しかも、よく見ると、明日は講義もゼミもばっちりあるではないか。

日記でくだらないネタを書いている暇はない。


そう思っていたのだが、今朝、牧野さんの日記を読んでいて、
34学会(44万会員)会長声明
日本は科学の歩みを止めない
〜 学会は学生・若手と共に希望ある日本の未来を築く〜
というのが発表されたと知った。 新聞報道は、「国内主要34学会、被災研究者支援で共同声明」

ぼくは、34学会の一つの日本物理学会の会員だが(かつ、会費滞納などしていない優良会員なわけだが)、こういう声明のことは聞いていない。メールも来ていない(と思う)。念のため物理学会ホームページを見たけど(パッと見たところ)何もみつからなかった。

その後、奥村さんの Twwitter 経由で、

を知った。

牧野さんもきわめて批判的だったが、実際に「声明」に目を通してみると確かにこれはひどい。 とうてい賛同できる文章ではない。

会長が勝手に声明を出しているんだから一会員がごちゃごちゃ言うなという考えもあるだろうが、冒頭近くの「我々,34学会(44万会員)は研究・技術コミュニティの総力を挙げて知恵と力を出す覚悟です」とか、文末の「34学会は国や各国の学会と連携し,次代に希望ある日本の未来を築いていくことをお約束いたします」とかは、さりげなく「34学会」を主語にしてしまっている。 この主語の中には、ぼくも(44 万分の 1 とはいえ)含まれるのだから、何かを言うべきだろう。

日本物理学会会長への公開の質問状などを書くレベルの気もするが、暇もないし、とりあえず(半ば脊髄反射的に)感想をまとめておこう。 考えの浅いところ、他に主張すべきことなどをご指摘いただければ幸いです。


「会長声明」の主要な三つの主張は、以下のとおり。
  1. 学生・若手研究者が勉学・研究の歩みを止めず未来に希望を持つための徹底的支援を行います
  2. 被災した大学施設、研究施設、大型科学研究施設の早期復旧復興および教育研究体制の確立支援を行います
  3. 国内および国際的な原発災害風評被害を無くすため海外学会とも協力して正確な情報を発信します
ただし、「提言 1,2 は科学を志す若者とそのご家族に向けて,提言 3 は国民の皆様全体にお伝えしたい」とのことである(なんか、このメッセージの対象もアンバランスで不思議)。

以下、思うことを、テーマに分けて書く。


まず、3 について。

牧野さんも似たことを書かれているが、「正確な情報を発信」するとして、いったいどういう体制で何を発信するつもりなのかが全く見えない。 物理学会会員であるぼくは、自分では発信すべき正確な情報など持ち合わせていないし、(たとえば被災地や原発の現状や今後の展望について)信頼できる情報があるならむしろ教えてほしいと思っている。 44 万人の会員のほとんどは、ぼくと同じじゃないのだろうか?  会長たちは通常の方法では入手できない「正確な情報」を入手する独自の経路を確立しつつあり、その信頼性・正確性を保証するためのシステムを作り上げているという話なのか??

いろいろな文脈でくり返し書いていることだけど、科学の基礎教養があれば万事に正確な判断ができるというのはマヌケな幻想に過ぎない。まして、人類が経験したことのない原発事故などになれば、正確な判断をするのは絶望的に難しい。 単に烏合の衆的に会長が集まって、何のプランもなく「われわれは科学者だから、正確な情報が発信できるはず」と思っているのだとしたら純粋な馬鹿だし何も考えていないということだろう。

ともかく、宣言した以上は絶対にちゃんとやれよと思う。これで何も出さなかったら恥ずかしいというレベルじゃなく欺瞞。

上記3つの提言に対して,我々34学会学会長は努力を惜しみません。
と全国に宣言したんだから、ちゃんとした情報発信が出てくる前に、この 34 名のうちの誰かがどっかで暇そうに過ごしているのを見たら厳しく糾弾しようではないか。

それにしても、(これも牧野さんが書いているけど)34 学会が集結して情報発信するための目標が「原発災害風評被害を無くすため」というのは、なんとも情けない。 おまけに、該当する部分の説明を読んでみると、

海外マスメディアの報道に必ずしも科学的に正確でない情報が氾濫し国際的な風評被害を招いています。
と書いてあって、国内のことよりも「国際的な風評被害」を念頭に置いているようなのだ(しかも、その責任を「海外マスメディア」に押しつけているというのもひどい話)。 「外国から怖がられたり嫌われたりするのが困るので、われわれ科学者がちゃんと外国に説明しますよ」という趣旨に読めてしまう。

日本の科学者からの情報発信が海外での心証を変えるのに有効なのかという疑問もあるわけだが、それ以上に、本気で情報発信を考えるならもっと他のこと考えてほしい。

原発周辺地域のみならず日本中の人が原発事故の現状と展望には切実な不安を感じている。 それは決して無知蒙昧から来る不安ではなく、きわめて正当な不安である。 そういう状況なのだから、(海外での心証が大事でないとは言わないが)日本人に向けた「正確で、わかりやすい情報発信」を真剣に考えるべきだ。 もちろん、ここに名を連ねたすべての学会にそんなことができるわけではない。 とうぜん、それぞれの学会には守備範囲があるわけで、直面した事態に応じて、しかるべき学会には「表に出て説明する責任」が生じるとぼくは信じている。 今回の場合なら、まずは原子力工学に関連する人たちは、それこそ寝る間も惜しんで情報を発信すべきだと思うし、他の学会はかれらに圧力をかけつつ、手伝えることは手伝うべきだと信じる(だいぶ前に出てきた「原子力工学研究者からのメッセージ」というのは全く更新されないし何をやっとるんじゃ? (というか、このページって何だったんだ? 誰か部外者が勝手に作ったニセサイトなの?))。 また、政府や東京電力から適切な情報が出てきていないと考えられている以上、学会の会長などが集まって情報を出すよう強く働きかけるべきなのだと思う。

また、これまでに世間に公表されている情報をもとにして、

などの重要な情報発信や提言がボランティア的におこなわれている(これは、ぼくが個人的に見ているもののリストなので、まったく網羅的ではありません)。

「我々34学会学会長は努力を惜しみません」というなら、こういう流れをしっかりと評価した上で、学会という組織(のさらに寄せ集め)で何ができるのかをしっかりと考えてほしい。 特に、山内さんらの提案のようなことは大きな組織が本気で動けばより実現しやすいのではないか?


実は、2 にもけっこう不満がある。というより、これには相当に胡散臭いものを感じている。

「被災した大学施設、研究施設、大型科学研究施設の早期復旧復興および教育研究体制の確立支援を行います」という主文だけを見ると、まあ当たり前のことだ。 なぜ、わざわざ取り立てて言うのかなあという感じ。 それに、学会長が集まった上で言うことなのかなあという疑問もある。

そこで、本文を読んでみるのだが、

研究体制・研究教育環境の復旧復興にあたっては,今後を見据えて教育研究予算を柔軟に使用できる工夫が必要です。
と書いてあり、その先にもしつこく「柔軟できめ細かい対応」とある。 しかし、「柔軟できめ細かい対応」という「お役所的表現」は何も言っていないのと同じで、いったい何をしたくて何が言いたくてこんな宣言をしているのかちっとも分からない。

それで次の段落を見るわけだが、ここで急に大型施設のことに話が移り

例えば,大強度陽子加速器施設(東海村)や高エネルギー加速器研究機構(つくば市)の加速器施設やフォトンファクトリー等は,多くの学生,若手研究者にも利用されています。
と具体的な施設名が(かなり唐突に)登場する。 ぼくも物理学者として高エネルギー実験の施設は重要だと思ってはいるし、これらの施設が震災で大打撃を受けたのは悲しいことだと思っている。 しかし、打撃を受けたのは、高エネルギー研や J-PARC(大強度陽子加速器施設)だけではなく、もっと小規模の実験室だって困っているし、電力制限で装置や計算機が使えなくて困っている人もいる。そして、それらの研究室だって「多くの学生,若手研究者にも利用」されている。 あえて大規模施設だけに言及するのは圧倒的にバランスを欠くと感じる。

そして、わざわざ具体的な施設名を二つ挙げていることをふまえて、前段落の「柔軟できめ細かい対応」という表現を読み直すと、要するに、予算をうまく融通して高エネルギーの実験施設の復旧を優先させようと言いたいのではないかと勘ぐりたくなる。 そんな勘ぐりをする私が単に下衆(げす)なのかもしれないけれど、でもこういう風に話を持って行かれると「柔軟できめ細かい対応」というのを他にどう解釈していいのか、ちょっとわからないのである。 あと、日本物理学会会長の永宮さんは、ここに名前があがっている J-PARC(大強度陽子加速器施設)の所長だということも一応は書いておきたい。


まあ、1 については(なんか、細かく引っかかるところもあるんだけど)基本的には正しいことだと思う。

言うだけじゃなくてちゃんとやってほしい。しかし、日本物理学会に「経済的支援を含む具体的な支援」をおこなう余力があるのだろうか? あ、それとも会費免除をしているということですか?

むしろ気に入らないのは「前文」だなあ。

科学・技術は日本の根幹であり,資源に乏しい我が国においては高度な研究と人材が日本を支える礎です。この震災による大きな困難を克服し,さらに文化的で豊かな社会を創り出すためには,科学の前進は不可欠です。
なんてことが、さらりと書いてある。

要するに、科学は日本という国が競争に勝って生き残っていくための手段だとみなしているわけだ。 まあ、こういう主張が一般的だということは知っているけど、これほど「寒い」科学観もないといつも思っている。 「科学」というのは、人の「文化」の根幹だし、人というものあり方の根本でさえあるとぼくは信じているのだ。

まあ、今ここで議論することじゃないわけだけど、なんか会長さんたちが名前を連ねて、皮相的で「寒い」科学観をどさくさに紛れて堂々と打ち出しているのは、個人的には、かなり不快なのである。


というわけで、けっこう長い日記を書いてしまって宿題は進んでいない。 いくら書くのが早いとはいえ、ちょっとまずいかも。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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