災害リスクの社会的決定因子

放射線のリスクは「積算」が重要である、といわれている。そのことと同様、個々人の生命や健康をおびやかすリスクそのものが、放射線以外のものも含むさまざまなリスクの積算であるはずだ。そのそれぞれ1つだけを見れば、ほとんどのもののリスクはそれほど大きなものではない。しかし塵も積もればどうなるのだろう? 微量では「ただちに健康に影響がない」ものでも、その微量なリスクをもつものがいくつも同時にふりかかり、しかも継続してふりかかり続けば? 
あえて僕からここで付け加えておくとすれば、その積算されるリスクの総量は、個々人によって異なるということである。それを決定づける要因は、生物学的因子(たとえば遺伝子)、物理学的因子(たとえば放射線)だけではない。社会的因子が少なからずあるはずだ。すなわち性別であり、地域であり、そしてなんといっても所得と社会的地位である。
ようするに環境問題の分野では「環境的公正(正義)」、医療問題では「健康格差」「健康の社会的決定因子」、そして災害問題では「社会的脆弱性」というキーワードで、こまで議論され続けたこと、それこそが問題の本質なのではないか? にもかかわらず、3.11以降、ほとんど忘れられかけている論点ではないのか? リスクの配分は万人に平等ではなく、社会的弱者により重くのしかかる、ということ。
なるほど、放射線のリスクはたいしたものではないかもしれない。農薬や食品添加物などの人工化学物質のリスクも。しかし同じマグニチュード地震、同じ高さの津波、そして同じシーベルト放射線が、異なる立場、つまりその時点ですでに被っているリスクの度合いが異なる人を同時に襲えば、つまり現実の災害が起きれば、その影響はどのように分布するだろうか? 答えは明らかである。個々ではわずかなリスクしかないものでも、それらを多く被っている者が、少なくしか被っていない者よりも、より深い被害を受けるはずである。
周知の通り、今回の震災で亡くなった人は、津波で逃げ遅れた高齢者が多い。なるほど「高齢」は生物学的因子かもしれない。しかし、その高齢者が独居か、高齢者夫妻か、それとも家族と同居しているか、良質な施設に入居していたか、すぐに情報を得られる環境にあったか、そうしたことは社会的因子であろう。
同じことは、少なくとも理論的には、原発事故についてもいえる。年齢や生活習慣などによって、個々人の発がんリスクは異なる。所得や社会的地位の低い者と高い者との間で、生活習慣、なかでも発がんリスクを左右する食事や喫煙、飲酒などの習慣が異なることは想像に難くない。そうした異なる発がんリスクを抱えた人々に、同じシーベルト放射線が及べばどうなるのか?
以上のようなことは、3.11以前からすでに議論されていたはずのことだ。僕はウルリヒ・ベックのリスク論にはたいへん敬意を抱いているのだが、彼の「富める者も、権力を有する者も、危険の前には安全ではありえない」(『危険社会』、法政大学出版、29頁)という言明については、若干の異論もしくは疑問がある、ということも付け加えておこう。

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

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環境的公正を求めて―環境破壊の構造とエリート主義

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「健康格差社会」を生き抜く (朝日新書)

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