北京・胡同逍遥

北京、胡同で暮らした十数年間の雑記 by 多田麻美/ Asami Tada

柴静さんの「穹頂之下」についてこっそり思うこと

すでに中国では大きな話題になっていて、日本でもわりと知られるようになった、元CCTVの人気アナウンサー柴静の「穹頂之下」。私も発表されて間もなく見て、その巧みなプレゼンテーションに感心した。
http://v.youku.com/v_show/id_XOTAxMzQ1NzY0.html
↑その後、この映像は削除されてしまったけれど、こちら↓では今も見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=T6X2uwlQGQM&t=882

実は私自身も、数年前に山西省や河北省での旅行で、柴さんと同じように、石炭の粉まみれになる体験をした。
さらに偶然なのは、はからずも去年、柴静さんと一カ月違いで唐山にも行っていることだ。市内のあちこちを歩きまわる取材だったので、唐山の空気の悪さも体験として知っている。今しみじみと後悔しているのは、取材のテーマが違ったこともあり、現地の人にあの時、「空気はいつもこうなのか?」と問わなかったことだ。

北京の空気は悪い悪い、と言われるけれど、実際にはいい日もある。
だから、いくら鉄鋼産業が集中する工業都市とはいえ、これはあんまりだ。ちょうど自分たちが行った日が特別悪かったのだろう、と思いこんだのだった。

印象的だったのは、その日公表されていた唐山の大気汚染指数は、北京よりずっと低かったこと。だが、列車で北京に戻ると、北京の方がずっと空気がいいと感じた。
そして、当然のことながら、公表されている数字は当てにならない、としみじみ思った。

そんな体験があったから、統計の公開こそが大事、と主張し、悪い数値の統計をバシバシと忌憚なく並べていた柴静さんの番組は、私にはかなり痛快だった。

実は私も恥ずかしながら、コミュニティ誌の編集をしていた10年以上前、果敢にも「大気汚染特集」を自ら企画して手掛けたことがある。だから、この分野の取材で、正確な情報を得るのがいかに大変かは、身にしみてよく知っている。図書館などで統計年表をめくっても、必要な数字はほとんど見つからない。推移グラフも、悪い傾向を示すものなら、自分で数字を拾って作るしかない。

当時、環境保護関係の公的機関は、軒並み取材を拒否した。
環境保護局の人に電話口で、「なんであなたの取材に応じなければならないのか、分からない」と冷たく言われたのを、今でもよく覚えている。もちろん、所属していた媒体の影響力が限られていたのも理由だっただろうが、そもそも彼らには、「美しくお膳立てされた」場合を除いては、メディアに情報を公開すべきだ、という意識がほとんどないようだった。

やっと取材に応じてくれた奇特な専門家の人たちも、対応はいかにも慎重で、「そもそも研究の基礎となる正確なデータを得られる人がごく限られているのだ」とぼやいていた。

かりに何らかのデータが得られても、発表できるかどうかは一種の「賭け」だった。
当時は環境関係のサロンにもよく顔を出したが、さまざまな環境問題を皆で議論した後、メディア関係者が一緒に考え込むのは、「何をどこまで発表できるか」だった。
特に外国人のハードルはきつく、「今回は外国人は参加できません」と言われたこともある。

だから私は、今回の「穹頂之下」に一部の上層部のバックアップがあることは、まったく疑わない。石炭産業関係者へのインタビューへの回答に、まるで冗談のような、あられもないほどぶざまな答えが目立つのも、ちょっぴり怪しいと思っている。

けれど、かといって、柴静さんが単なる傀儡だとも、思わなかった。

「大気がきれいにならないのは、制度上、構造上の問題が大きい」、「汚染行為の摘発が徹底しておらず、摘発されてもどこも責任をとらない」、「汚染された空気には金の匂いがする」、「正確なデータの公表こそが大事」などといった主張はどれも、「その通り!」と膝を打ちたくなるものばかりだったし、どう考えても、まともなメディア関係者なら、チャンスさえ与えられれば、声を大にして言いたいことのはずだ。

一番いいと思ったのは、柴静さんが、「きれいな空気を得るために、私たち一人一人ができること」を強調していたことだった。そこには、自家用車に乗る回数を減らしましょう、などといった、車メーカーの広告が多いCCTVではちょっと言いづらそうなことも含まれていた。

ただ、個人個人の意識の改革が大切だ、という番組の流れで行けば、民間の環境保護団体は重要なポイントになったはずだった。だが、残念ながらその方面への言及はほとんどなかった。協力は絶対に得ているはずなのに。
NYタイムズの最近の記事でも紹介されていた通り、今の中国では民間NGOへの締め付けが確かに厳しい。だから、やはり「何らかの理由」で回避せざるを得なかったのだろう、と私は勝手に推測した。

もっとも嬉しかったのは、民間環境保護組織のさきがけである「自然の友」の名が、極めて早口だが、資料の提供者の名として言及されたことだ(ちなみに、この組織の設立者は、私が以前訳した『北京再造』に登場した梁思成と林徽因の息子、梁従誡)。私はそこに、関係者の意地を感じた。やっぱり限界に挑んでいるのだ、と。

グループを組織して動かれては困るけど、個人での監視は歓迎、ということなのだろう。番組では、大気を汚染する行為を目撃した場合は、当局にどんどんと電話で通報するよう、呼び掛けていた。
実は、これについては思い当たるところがある。我が家の近くで最近、環境の監督を職務とするらしき、やや正体不明のオフィスが、2つもできたからだ。番組と行政側が連動していることの証拠ともいえるが、それは同時に、番組の内容がチェックを受けた証拠でもあるだろう。

そこで、私はつい番組中に挟まれた、「この一年、とても不愉快だった」という柴静さんのコメントを深読みしてしまった。バックアップは得ていても、やはり言えなかったことはあるのではないか、と。

しかし、結果としては、黒幕の上層部はしたたかだなあ、と思う。民間の一個人が何か社会的なメッセージを発し、それが全国に広まることは、当局がそもそも一番恐れていることのはずだ。それを逆利用し、ある程度今後の改革に有利な言論を、本当はそうではないのに100%「民間からの発信」のふりをして広め、莫大な宣伝効果を得る。何だか「ネットの影響力」を量る実験をしているかのようだ。あくまで感覚的なものだが、ここ2、3日は、街でマスクをしている人が若干増えたように感じる。つまり、マスクの数を数えれば、番組の影響力がある程度は分かる。

だが、実験がここまで成功したことは、関係者にとっては、ちょっと怖いことでもあるのではないだろうか。自分がコントロールできている今の間はいいが、もし制御できなくなったら?と。

中国では「穹頂之下」の挙げているデータの不完全さや誇張を問題視する人が続出していて、ひいては「女性ならではの扇情性がある」などといった差別的コメントまで出ているようだ。

でもそう叩く彼らは、メディアの専門家ではない。人間の思いやドラマを盛り込まねば、データの数字に観衆の関心をひきつけるのは難しいこと、そもそも、中国でメディア関係者が環境問題関連の正確なデータを得ること自体が、いかに難しいかを知らない。

柴静さんが議論を呼ぶ「叩き台」を作ったことはやはりかけがえのないことだ。その後で、データを完全なものへとバージョンアップするのは、専門家がやればいい。ぜひぜひ今後はメディア関係者に積極的に協力し、他人を叩くだけでなく自ら、正確な情報の発信と普及に励んで欲しい。

ただ唯一心配なのは、石炭原料への過度の依存を叩いた今回の番組が、火力から原子力へのエネルギーシフトのための潤滑油となってしまうことだ。

今回、柴さんの口からは、最近、大規模な建設が再開した原子力発電所や、現実とは著しく反して「クリーンなエネルギー」が売りのはずの原子力エネルギーの話はまったく出てこなかった。
反対に、本当に比較的クリーンであるはずの自然エネルギーも。
「石炭を叩けば事足れり」だからとはいえ、その沈黙は、ちょっと不気味だった。

もちろん、今回の文章全体についてと同じく、「考えすぎ」なのかもしれないけれど。